新城市「昭和街」の夢:プレゼンテーションの原稿

みなさん、こんにちは。今日は、新城という町について考えていただきたいと思います。まずは、これらの共通点は何でしょうか?

四谷の千枚田       軽トラ市         百間滝

ツール・ド・新城   コスモスの小路     桜再生プロジェクト

新城ラリー        のんすけ        梅の里川売

 

さて、共通点はわかりましたか?

これらはすべて20年前ですと、見向きもされなかった場所、もしくは存在しなかったイベントです。けれども、今は新城の魅力となり、顔となり、人を新城に引き寄せるものとなりました。

私は郵便番号も市外局番も5桁の時に新城市に住んでいました。その時の観光案内パンフレットを引っ張り出しました。みなさん、この頃の新城市を覚えていますか。唯一、人を新城に引き寄せるものというと、桜淵公園、そして設楽原の激戦地だけでした。合併後の地域を含んでも鳳来寺山と長篠城址だけでした。

 

この20年間で新城市は本当に大きく変わりました。これらの場所やイベントが当たり前になりすぎて、気づかなかったかもしれませんが、決して当たり前ではありません。

この20年間で、市役所や商工会も大変がんばってきましたが、一般市民の努力もとても大きかったです。個人だったり、保存会のメンバーだったり・・・みんなして力を合わせてがんばっています。

一般市民の努力を決して軽く見ないでください。皆さんも参加して、アイデアを出し合うことによって、町を大きく変えることができることを、知っていただきたいと思います。

 

 

もう一つ、20年前にはなかったものがあります。ニューキャッスル・アライアンスです。1998年に、日本の新城市が世界にある「新しい城」と名乗る町に声をかけて、第1回「世界新城サミット」が開催されました。この時、私も通訳のお手伝いをさせていただきました。

1998 Shinshiro Summit

参加した皆様は大変感動され、心動かされ、New Castle Alliance = 訳して、「世界の新城連合」が設立されました。その後、2年に一度どこかの国のニューキャッスルで集まるようになりました。

newcastles

これは、何度もお金の無駄遣いだと、批判されてきましたが、続していくうちに不思議なことが起こりました。2年毎に、アメリカ、スイス、南アフリカ、チェコなどに行って、そして若者も行くようになりました。この交流を通して大変衝撃を受けました。海外の若者はディスカッションが熱心で、自分の町のことを気に留めています。そして若者の声が市制に届けられる場が設けられています。

新城の若者はこれを見て、「今のままの新城じゃヤバイ!若者が去っていく一方で、若者の声が市制に届く体制がない!」と気づきました。そこで、2012年、イギリスの会議から帰ってきた若者は「新城ユースの会」を設立しました。みなさん、これは何を産んだか、ご存知ですか。若者議会です。日本全国でも数少ない、若者の声が市制に影響を与えることができる場がこの新城市にあります。

これは全てニューキャッスル・アライアンスがあってのことです。自分の町を出て、世界に出て行って始めて自分の町のよしあしが見えて来ます。

そして、2年に1度持たれているこの会議ですが、2年後の20周年、発端となった新城市で開催されることになっています。そこで今、新城市の若者は英語習得とディスカッション能力を高めようとして、必死でがんばっている若者がいます。

継続的にある活動を続けると、思っても見なかった実を結んだりすることがあります。

 

 

私も、外国人として新城市を20年以上見ています。初めて旧道の商店街の町並みを見た時、心が打たれました。なんとステキな町並みだろう!昔の日本がそのまま残っている!

私が思うには、橋向の交差点から平井の交差点までの商店街を「昭和街」として保存すべきだと思います。私がお話をする間、商店街の写真を見てください。この写真は朝方撮ったので、シャッターが全部下りていますが、これらの建物が今どんな状態なのか、きれいなのかではなく、潜んでいる可能性を見て欲しいと思います。これらが「昭和」を思い起こす建物であるかどうか、考えていただきたいと思います。

新城市・昭和の町並み

(PowerPointのスライドショーです。PowerPointで開いて、「スライドショー」として動かすと、自動的に流れるようになっています。約3分のスライドショーです。)

 

多くの人は、「戦前の昭和じゃないと保存するに値しない。道が舗装されていなかったり、長屋でなかったりと昭和っぽくない!」と思うかもしれません。けれども、昭和は60年以上続きました。様々な昭和があります。戦前、戦後、経済成長期、バブル最盛期――これらが全て昭和です。昭和の全体を残すことにこそ意味があります。1970年代、80年代のものも残す必要があります。

現代の私たちにとっては、ただ「古くてダサい」、「早く取り壊してしまいたい」としか思えませんが、20年、30年先のことを考えてみてください――この時の人たちは、今のものが残っていたらとても懐かしくてとてもステキに思うと思います。

平成に入ってからの建物は四角くてデザイン性にかける、外壁がパネリングのものばかりです。商店街がすべてそのようになってしまったら本当にもったいないと思います。

特に、新城の商店街はアーケードではないからこそ威圧感のない、開けていて、歩いていて気持ちがいい商店街です。しかも、戦争の時に空襲を受けていないから、戦前のものも残っていて、そしてアクセスがいい――この商店街を保存することができれば、将来の新城市にとって大きな財産になります。

 

「生きた博物館」、昭和の生活をそのまま体験できる、大人気の観光スポットになって、修学旅行の目的地の一つにもなるような魅力があるほどの町並みです。そして70年代、80年代の話を描く映画のロケ地としてもモッテコイです。

みなさんは新城の中心街の町並みをどのような目で見ていますか。今残っているものを取り壊すのをやめて、修繕して、改装して、耐震化しておくことをおすすめします。

簡単でもない、すぐに終わることでもない、もしかしたら10年、20年かかるかもしません。けれども、あきらめないで少しずつ進めていけば必ず実を結びます。

「お金がないから」というかもしれませんが、歴史研究の団体や企業のサポートや、クラウドファンディングなど、クリエイティブに考えれば、お金を集めることができることを信じます。

やるなら今が時です。まだ間に合います。

但し、言うまでもなく、このためには持ち主と住民の協力と理解が不可欠です。

 

このように新城の中心街を「生きた博物館」にしたら、どんなことができるのか、想像してみてください。どんなお店があって、どんな仕事を生み出すでしょう。LPやレコードプレーヤーを売っているお店、アンティーク屋さん、昔の映画やアイドルのグッズのお店があったりしてもいいです。ハンズオンの博物館で床に置くタイプのラジオ、一眼レフ、ネガや暗室、リモコンのないテレビ、そして2層式の洗濯機があるといいかもしれません。昔ながらの食堂、パン屋さんや駄菓子屋さん、そしてポケットパークで観光案内の若者が子どもたちと一緒に輪回しや竹馬や缶下駄で遊んだり、お年寄りのガイドが町の案内をしています。週末だけでも歩行者天国にしたりするといいかもしれません。

数えきれないぐらいの魅力に満ち溢れた「新城の昭和街」の夢が思い浮かんできます。

 

このアイデアは正に「Back to the Future」――過去に戻り、過去を取り戻すことによって、新城市の未来が見いだせるのではないでしょうか?

そこには、元気になった町に住んでいる人、働き甲斐のある仕事を見つけた人、そして夢を持っている人の姿があります。

みなさんは将来の新城市に対して、どのようなビジョンを持っていますか。新城市はこの20年間で大きく変わりました。次の10年、20年、さらにいい風に変わっていくことに期待します。

 

みなさん一人ひとりの願い、意見、経験、そしてリソースを活かして、より良い新城市を共に造って行こうでありませんか。

 

ご清聴ありがとうございました。

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