「感動してお抹茶にむせた」の巻

先月、高校生の娘の文化祭に行ってきました。娘は茶道部なので、唯一の狙いが茶道部のおもてなしを受けることでした。

Tea Ceremony

学校に入って、早速茶室に向かいました。廊下に並んでいた椅子に座り、茶室に入れるように順番を待っていたら、知っている顔の先生が隣に座って来ました。(あれ?これ、確か校長先生だけど。でも本当にそうなのかな?間違っていたら恥ずかしいし。緊張する!)たぶんそうだろうと思ったので、一応立ち上がって挨拶をしました。でも、今年着任されたばかりの校長先生なので、入学式とPTA総会でしかお目にかかっていなくて、本当に校長先生かどうかは、自信がなかったです。

当日券を買う必要があったので、入り口で隣の先生に先に行っていただこうとしましたが、先生はとても紳士的にちゃんと順番を守って辛抱強く待ってくれていました。(アッチャー、校長先生(と思われる人)の隣でお茶を頂くことになるのか。緊張する!)と、思いながら並んでいた座布団に正座しました。

お茶を運んでいる一年生の娘の写真を撮りたいのは山々でしたが、今回は、心の目で記録することにして、カメラを荷物に置いたままにして後ろに置きました。

お手前は二年生がしてくださいました。私も留学の時、茶道部だったので、お抹茶を立てるのも頂くのもとても好きです。お手前そのものや頂き方はほとんど忘れました。頂き方の手引きのようなプリントが座布団のところに置いてありましたが、老眼鏡がないと読めないぐらい字が小さくて、見よう見まねとうろ覚えでやるしかないと思いました。

けれども、「われ先に」という外国人の本心が露わになってしまったことがありました。和菓子をお盆から取ろうとする前、またお茶を頂こうとする前に、隣にいる(校長先生と思われる)先生に「お先に失礼します」と、手を出す前に言うのを二回も忘れてしまいました。あぁ〜、恥ずかしい。

お手前を見ている間、ものすごくたくさんのことが頭に思い浮かんできました。日本人の気遣い、おもてなし、作法の細かさやその一つ一つに意味があること。四季を意識したお花や掛軸。千利休が茶道をキリスト教の聖餐式を日本流に取り入れて作ったという説があること。最近は色々あって、本当に疲れていて、このような安らぎの時間がなかなかなくて、こういった日本的な安らぎ方は本当に貴重な体験だということ。などなどです。

素晴らしい日本的な安らぎの時間、空間に本当に感動しました。そしてそのような心境の中、お抹茶をいただきました。

その抹茶が本当に、本当に美味しくて、感動して、ほかの考えごとと合わせて、涙が出そうになりました。お茶を飲みながら涙ぐんでいたら、なんと、お抹茶にむせてしまい、咳が止まらなくなりました。

なんとかしてその場の雰囲気を壊さないように、咳をこらえました。真っ先に頭に思い浮かんだのは、

(しまった!ここにいるみんなは、きっと、私はただ単に抹茶が飲めない外国人だと思っているだろう!本当は全然違うのに!感動してむせたのに!)と。

仕方なく、時々それでも湧き上がってくる咳をできるだけこらえながら、美味しいお抹茶を最後まで飲んで、素敵なお茶会の幕が閉じました。帰りに隣にいた(校長)先生に「感動してむせてしまいました、どうもすみませんでした。」と、謝りました。それでもきっと、抹茶が飲めない外国人だと、みんなに思われているだろうなぁと、少し身をかがめながら茶室を出ました。

帰りにちょうどドアのところにいた娘を捕まえて聞きました。“Was that teacher sitting next to me the principal?” 「そう。」やっぱり校長先生だったんだ。あぁ、恥ずかしい。

それにしても、日本的な安らぎの時間にあれほど感動したのは、自分自身でも少し驚きました。また是非いつか、お茶会に参加して心を落ち着かせてお抹茶をいただきたいものです。心の目で感動を胸に焼き付けながら・・・。そして感動しすぎてむせないように注意したいと思います。